ブラックミュージックの歴史(ヒップホップ誕生後)
ブラックミュージックの歴史2
ヒップホップ誕生後
ヒップホップの誕生から現代のトラップ、オルタナティブR&Bまで
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このサイトではR&B/ヒップホップを中心にブラックミュージックの歴史をご紹介します。
R&Bを上手く歌う為には、例えばブルージーな歌い方、ジャジーな歌い方、ゴスペル風の歌い方、サザンソウル風の歌い方、ノーザンソウル風の歌い方、ファンキーな歌い方、ニュー・ソウル風の歌い方、ヒップホップソウル風の歌い方、ネオ・ソウル風の歌い方、そして今流行りのトラップ・ソウル風の歌い方、オルタナティブR&B風の歌い方など、R&Bの歴史を勉強し、伝統的な歌唱法をマスターする事で、本物のR&Bシンガーに近づきます。
ヒップホップもオールドスクール風のフロウ、ニュースクール風のフロウ、Gファンク風のフロウ、ハードコアヒップホップ風のフロウ、ダーティ・サウス風のフロウ、クランク風のフロウ、そして今流行りのトラップ風のフロウ、カントリー・ラップ風のフロウなど、ヒップホップの歴史を勉強する事は非常に大切です。
R&Bの本場ニューヨークと言う人が多いですが、ニューヨークで誕生したのは、ヒップホップとニュージャックスウィング、ヒップホップソウルだけです。ジャズも含めればビバップジャズ、ハード・バップジャズなどはニューヨークで誕生しました。
各ジャンルが誕生したアメリカの都市を書いていますので、下のアメリカの地図を参考にしてください。
本文では各州が、北部か南部かという事を書いていますが、19世紀(1861年から1865年)の南北戦争で、奴隷制を廃止しようとした北軍に属していた州が「北部」、奴隷制を続けようとした南軍に属していた州が「南部」と今でも呼ばれています。
南北戦争は、主に奴隷制の可否をめぐった、白人同士の戦争でしたが、北軍には黒人部隊も存在していました。
結果は北軍の勝利で、奴隷制は廃止されましたが、南部ではキング牧師の公民権運動が1965年に成功を収めるまで、根強く黒人差別が残っていました。
ヒップホップの誕生(オールドスクール)
ヒップホップ・カルチャーは1970年初頭に東海岸のニューヨークのサウス・ブロンクスの貧困の中で誕生しました。
ソウルミュージックでは南部と北部に分かれていましたので、ニューヨークは北部ですが、ヒップホップではニューヨークは東海岸と呼びます。
最初のヒップホップ/ラップの曲は動画のシュガーヒル・ギャングの曲で1979年でした。
バックサウンドはディスコ・ミュージックで紹介したシックの"Good Times"という曲です。シックの紹介として貼った動画の曲とは別の曲です。
当初のヒップホップはこの様に、主にディスコ・ミュージックのサウンドに乗せてラップをしていたのです。これは意外かもしれませんが、1983年にジャズマンのハービー・ハンコックが動画の"Rockit"という曲で、ヒップホップ独自のサウンドを作り出しました。ハービー・ハンコックはいわゆるジャズマンとしても超一流ですが、ジャズ・ファンクの第一人者であり、常に新しいビートとサウンドを作り出していましたので、ヒップホップにも影響を与えた訳です。
よってオールド・スクールは1979年から1983年までのヒップホップを指します。
1983年の"Rockit"でヒップホップ独自のサウンドが誕生し、1984年からヒップホップは飛躍的に進化をします。
ラップ自体の誕生となると、今のラップとは全然違いますが、ジャズマンによるR&Bのジャイヴの時代からありました。
今のラップに近いラップはファンクでは1960年代からあったのですが、やはりラップはヒップホップ特有だと言えます。
シュガーヒル・ギャングはニューヨークに近い北部のニュージャージー州出身のヒップホップグループですので、大まかには東海岸のグループです。
ハービー・ハンコックは北部のイリノイ州シカゴ産まれのジャズピアニストです。
この時代はオールド・スクールと呼びます。
シュガーヒル・ギャング
ハービー・ハンコック
ヒップホップ(ミドルスクール)
Run-D.M.C.やパブリック・エナミー等が活躍した時代は、日本独自のヒップホップの歴史の時代区分でミドルスクールと呼びます。1984年から1986年のヒップホップです。それは1987年にニュージャックスウィングが登場したからです。
これは主にヒップホップダンスの教育で、ミドルスクールのダンスとニュージャックスウィングのダンスでは、ステップが大きく異なる為に、ダンス指導の便宜上の歴史区分です。
ニュージャックスウィングにはラップの曲もありましたが、どちらかと言えば歌がメインのR&Bの一種でした。
ですので、ヒップホップの音楽の歴史としては、ニュージャックスウィングの時代も、Run-D.M.C.やパブリック・エナミーなどは、ヒップホップシーンの第一線で活躍していた訳ですので、ニュージャックスウィングのラップの曲も流行ったというくらいの位置付けでしょう。
よって、ここではあえてニュースクールが誕生する前の1989年までのヒップホップを紹介します。
またこの時代はゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれますが、それは1992年のGファンク登場前までを指します。
Run-D.M.C.は東海岸のニューヨークのクイーンズ出身のヒップホップグループです。動画は1986年の曲です。
パブリック・エナミーは東海岸のニューヨークのロングアイランド出身のヒップホップグループです。動画は1989年の曲です。
Run-D.M.C.
パブリック・エナミー
1980年代ソウル
1980年代になると、それまで南部のサザン・ソウル、北部のノーザン・ソウルと南北に分かれていたソウルミュージックシーンが、北部のニューヨークに拠点を移します。
もちろん全てのソウルミュージックのシンガーやミュージシャンがニューヨークに拠点を移した訳ではありません。
1980年代を代表するソウルシンガーの一人、ルーサー・ヴァンドロスは北部のニューヨークのマンハッタン産まれで、育ちはブロンクスです。動画は1981年のデビュー曲です。
1980年代ソウルの時代は、中流階級の黒人がマンハッタンの夜景をバックにレッドワインを飲むのがお洒落だと考えられていました。この時代頃からブラック・コンテンポラリー(現代黒人音楽)、日本では略してブラコンと呼ぶ様になりました。
そして歌姫、ホイットニー・ヒューストンも1980年代にデビューしました。
文字数の関係でホイットニーと略していますが、ホイットニーはニューヨークに近い北部のニュージャージー州産まれです。動画は1985年の曲です。
ルーサー・ヴァンドロス
ホイットニー
ニュージャックスウィング
1980年代後半に誕生し世界的に一斉を風靡した音楽は、ニューヨークのアップタウン・レコードでテディー・ライリーによって作られた、ニュージャックスウィングと呼ばれるヒップホップとR&Bを組み合わせた画期的な音楽でした。そのブームはヒップホップ・ソウルが誕生するまで続きました。ニュージャックスウィングにはR&Bの曲とラップの曲がありますので、一概に北部とも東海岸とも呼べません。
R&Bと考えると、テディー・ライリーは北部のニューヨークのハーレム産まれです。
スウィングはスウィング・ジャズで知られる様に元々はジャズのリズムで、3連符の中抜きです。
一方で、ニュージャックスウィングは、6連符のハイハットの2つ目と5つ目の音を抜いた、ジャズのスウィングを応用したビートでした。
ハーレムでは、かつてはスウィング・ジャズが盛んでしたので、ニュージャックスウィングには、ニュージャック(青二才)のスウィングという意味があります。
アップタウンの楽曲に絞っていますが、ボビー・ブラウンやシャニースなどもニュージャックスウィングを歌っていました。
ヘヴィ・Dの曲はテディ・ライリーによって作られた曲ではないのですが、この曲によってニュージャックスウィングが世界中に披露されたと言って良い、草分け的な1986年のデビュー曲の動画です。メンフィスのスタックスの曲を元ネタにしています。
一般的にはニュージャックスウィングは1987年に誕生した音楽とされています。
ヘヴィ・Dはジャマイカ産まれです。
そのテディ・ライリーがやっていたガイというグループがニュージャックスウィングの本家です。
ファーストアルバムからではないく、ニュージャックスウィングの完成形と言える曲を、1990年のセカンドアルバムから選んだ曲の動画です。
リードボーカリストのアーロン・ホールのパワフルなゴスペル的な歌唱は、R&B歌唱のルーツがゴスペルという図式は以前からもありましたが、その認知度がより強くなりました。アーロン・ホールはニューヨークのブロンクス産まれです。
ラップはヘヴィ・Dです。
ヘヴィ・D
ガイ
ヒップホップ(ニュースクール)
ニュースクールも東海岸のニューヨークで進化したヒップホップです。
ニュースクールの幕開けは、動画の東海岸のニューヨークのロングアイランド出身のヒップホップグループ、デ・ラ・ソウルの"Buddy"という1989年の曲でした。
この曲にはア・トライブ・コールド・クエストやジャングル・ブラザーズなどが参加していました。
文字数の関係でATCQと略しましたが、ア・トライブ・コールド・クエストの動画は、1993年にニュースクールが完成したと言える曲を選びました。
ア・トライブ・コールド・クエストは東海岸のニューヨークのクイーンズ出身のヒップホップグループです。
デ・ラ・ソウル
ATCQ
ヒップホップ・ソウル
さて1990年代から、2000年代、2010年代までR&B/ソウルの主流のジャンルであった、ヒップホップ・ソウルを作ったのもやはり、ニュージャックスウィングを作った北部のニューヨークのアップタウン・レコードでした。
初めてヒップホップ・ソウルを歌ったのはヒップホップの生誕地と同じサウス・ブロンクス産まれのメアリー・J.ブライジでした。それは1992年の事でした。メアリー・J.ブライジはヒップホップ・ソウルの女王として知られています。動画はその1992年の曲です。
同時期にデビューしたのがJodeciでした。Jodeciはニューヨーク出身ではなく、南部のノース・カロライナ州出身でしたので、歌い方がまともにサザン・ソウルです。ノース・カロライナ州はコンテンポラリー・ゴスペルの生誕地ですので、ゴスペルフィーリングも強い歌い方です。正確にはJodeciは1991年にデビューしていますので、まだニュージャックスウィングの色が強く、ヒップホップ・ソウル誕生前の曲ですが、動画はその1991年のデビュー曲です。大まかにはヒップホップ・ソウルの草分け的な曲だと言えます。一般的には1993年のセカンドアルバムがJodeciの代表作と呼ばれていますが、1995年のサードアルバムこそがヒップホップ・ソウルの完成形にして衝撃の最高傑作でした。
どちらもアップタウン・レコードからデビューし、ヒップホップ・ソウルの幕開けになりました。
デビュー当時は、どちらもまだニュージャックスウィング色が強かったのですが、ヒップホップとソウルミュージックを見事に組み合わせました。
ニュージャックスウィングの時代はシンガーが歌とラップの二刀流という場合は多かったのですが、ヒップホップ・ソウルの時代からシンガーは歌、ラップはラッパーという様に専門職に担当が分かれました。
メアリー・J.はデビューアルバムのラストでラップをしていますが、ヒップホップ・ソウルが誕生した当初はニュージャックスウィングの延長線上でシンガーがラップをする事は稀にありました。しかしそれ以降はローリン・ヒルなどの一部のシンガーを除けば、2010年代になるまで、ラップパートはラッパーに任せ、R&Bシンガーはラップをしないという暗黙のルールがありました。
メアリー・J.ブライジ
Jodeci
Gファンク(西海岸)
ヒップホップソウルが登場した年に、西海岸のカリフォルニア州コンプトンでドクター・ドレーによって、Gファンクが誕生しました。
ドクター・ドレーがいたコンプトン出身の西海岸を代表するヒップホップグループ、N.W.A.は1987年にデビューしていました。N.W.A.にはドレーの他にイージー・E、アイス・キューブなどがいました。動画は1988年の曲です。
これによって、ヒップホップでは東海岸のニューヨークと、西海岸のカリフォルニアに分かれました。
GファンクのGはギャングスタの略で、ギャングが作ったヒップホップです。
尚、Gファンクというジャンル名はドクター・ドレーが、このページでも紹介したPファンクが好きだから、Gファンクというジャンル名にしたという経緯があります。
もちろんドクター・ドレーはコンプトン産まれです。動画は1992年の曲です。
ドクター・ドレーの動画の曲にはデビュー前のスヌープ・ドッグも参加しています。
N.W.A.
ドクター・ドレー
ハードコアヒップホップ(東海岸)
このハードコアヒップホップというジャンルは、ニュースクール・ヒップホップよりも前に東海岸で生まれていたのですが、一般的に有名になったのは1990年代でした。元ブギ・ダウン・プロダクションズの東海岸のニューヨークのブルックリン産まれで、ブロンクス育ちのKRS・ワンを筆頭に、同じく東海岸のニューヨークのスタテンアイランド出身のウータン・クランなどによって一躍有名になりました。
KRS・ワンの動画は1995年の曲です。
ウータン・クランの動画は1993年の曲です。
KRS・ワン
ウータン・クラン
1990年代ソウル
1990年代は色々なR&B/ヒップホップのジャンルの音楽が生まれ、2000年代、2010年代に受け継がれました。
1990年代ソウルの特徴はソロシンガーは少なく、ボーカルグループブームでした。
ここではビルボードチャートで流行ったメインストリームの1990年代ソウルの紹介です。
まずボーイズIIメンは次々に週間のビルボードチャートの連続1位記録を更新しました。
1990年代に連続1位記録を更新したのは、ホイットニー・ヒューストン、ボーイズIIメン、マライア・キャリーですが、全てバラードでした。
そしてボーイズIIメンの大ヒットした多くの曲は、1990年代のヒットメイカーであったベイビーフェイスが書いた曲でした。
ボーイズIIメンはフィリー・ソウルで知られる、北部のペンシルベニア州フィラデルフィア出身のグループですが、モータウンからデビューし、美しいハーモニーで知られていたフィリー・ソウルが復活しました。
そしてボーイズIIメンは1991年にデビューしたヒップホップ世代のグループですので、当然ヒップホップ・ソウルも歌いますが、ドゥーワップもリバイバルして、ノーザン・ソウルの申し子的なグループです。動画は1994年の曲です。
ベイビーフェイスは北部のインディアナ州インディアナポリス産まれですが、この頃は南部のジョージア州アトランタに拠点を移し、相方のL.A.リードと共にLaFaceレコードというレーベルでヒットを量産していました。
そのジョージア州アトランタ出身のR&Bグループの代表格はTLCでした。TLCはアトランタ産のヒップホップ・ソウルの代表的なグループです。動画は1994年の曲です。
TLCの動画の曲はLaFaceからのリリースですが、ベイビーフェイスとL.A.リードが作曲した曲ではありません。
一時期は、北部のニューヨークに拠点を移していたソウルミュージックシーンですが、1990年代から南部のジョージア州アトランタに拠点を移しました。この時期からR&Bの本場はアトランタになりました。
ジョージア州は元祖リズム&ブルースと言って良いレイ・チャールズの出身地であり、古くはリング・シャウトの発祥地でもあります。R&B/ソウルミュージックはブラックミュージックの故郷の南部に戻ったのです。
ボーイズIIメン
TLC
ネオ・ソウル
ネオ・ソウルを作ったディアンジェロは1995年にデビューしました。
解りやすく言えば、ネオ・ソウルは1970年代のニュー・ソウルの影響がある音楽です。
ネオ・ソウルは、ニュー・ソウルとヒップホップを組み合わせた音楽だという事が、ディアンジェロに関しては言えます。
特にディアンジェロに似ているニュー・ソウルのアーティストはカーティス・メイフィールドです。
ディアンジェロは南部のバージニア州産まれです。動画は1995年の曲です。
しかし1996年にデビューしたネオ・ソウルの女王のエリカ・バドゥに関しは、ジャズ歌唱とヒップホップを組み合わせた全く新しい音楽でした。
エリカ・バドゥはテキサス州ダラス産まれです。動画は1997年の曲です。
ネオ・ソウルは、当初はニュー・クラシック・ソウル、そしてエリカ・バドゥの様な音楽はオーガニック・ソウルと呼ばれていました。
当時ニュー・クラシック・ソウルと呼ばれていた音楽はもっと幅広く、1950年代や1960年代のソウルに影響を受けたアーティストもいました。
ネオ・ソウルはもちろんヒットしたのですが、ビルボードチャートでヒットしたというよりは、グラミー賞がとにかく推したジャンルでした。
その推しは1990年代、2000年代、2010年代まで続きました。
ディアンジェロ
エリカ・バドゥ
ダーティ・サウス
1990年代の中盤まではヒップホップと言えば東海岸と西海岸でしたが、南部のダーティ・サウスが登場しました。
ダーティ・サウスは南部のジョージア州アトランタのアウトキャストなどがパイオニアですが、この時代のダーティ・サウスは主に南部のルイジアナ州ニューオリンズのヒップホップを指していました。これは当時の話で、今はサザン・ヒップホップの全てを指すジャンル名です。
有名だったのは、ニューオリンズ産まれのマスター・Pが立ち上げたノー・リミット・レコードと、やはりニューオリンズのキャッシュ・マネー・レコードでした。
動画はノー・リミットの顔と言えるミスティカルの2000年のヒット曲と、そしてキャッシュ・マネーの顔と言えるリル・ウェインと同じホット・ボーイズというグループにいたジュヴィナイルの1998年のヒット曲です。どちらもダーティです。
そして、どちらもルイジアナ州ニューオリンズ産まれのラッパーです。
ニューオリンズはジャズの発祥地として知られていますが、この頃はダーティ・サウスの本場としても知られていました。
ミスティカルは動画の曲の頃はノー・リミットからジャイヴに移籍していました。
ミスティカル
ジュヴィナイル
クランクとクランク&B
まずクランクというのは1990年代の中盤にブルースとサザン・ソウルの本場の南部のテネシー州メンフィスでスリー・6・マフィアによって作られたヒップホップでした。
2000年代に入り、南部のジョージア州アトランタでリル・ジョンによってクランクとR&Bを組み合わせたクランク&Bという新しいR&Bが誕生しました。
動画はスリー・6・マフィアの曲と、クランク&Bの女王のシアラがクランク&Bを世界的に有名にした曲です。
スリー・6・マフィアはもちろん南部のテネシー州メンフィス出身のヒップホップグループです。動画はメンフィスの街並みが見られる2000年の曲です。
リル・ジョンは南部のジョージア州アトランタ産まれ、シアラはテキサス州産まれですが南部のアトランタ出身です。動画は2004年のシアラのデビュー曲です。
クランク
クランク&B
2000年代ソウル
2000年代ソウルは1990年代のヒップホップ・ソウルの延長線上でした。
文字数の関係でデスチャと略しましたが、デスティニーズ・チャイルドは1990年代の後半に4人組でデビューしていて既に人気がありましたが、2000年代に3人組になってから世界的に有名になりました。もちろんデスチャは、ビヨンセがいたグループです。
デスティニーズ・チャイルドはテキサス州ヒューストン出身のR&Bボーカルグループでした。動画は2004年の曲です。
一方、男性では、やはり1990年代にデビューし、既に成功していたアッシャーが、クランク&Bを歌い一躍トップに躍り出ました。シアラの曲もアッシャーの曲も同じ2004年のリリースですが、正確にはアッシャーの方が先でした。動画はその2004年の曲です。
アッシャーは南部のテネシー州産まれですが、10代の時に南部のジョージア州アトランタに移住し、アトランタを代表するR&Bシンガーです。
当時の人気ぶりから、あえて1990年代デビュー組のデスチャとアッシャーを取り上げましたが、2000年代にデビューした2000年代を代表するR&Bシンガーと言えば、女性シンガーではヒップホップ・ソウルのお姫様のアシャンティ、そして男性シンガーではニーヨも忘れてはいけません。
デスチャ
アッシャー
EDM(R&B)
エレクトロニック・ダンス・ミュージック、略してEDMは今では白人の音楽だと思っている人も多いと思いますが、この時代は黒人の音楽でした。但し、歴史を辿るとディスコ・ミュージックをルーツにヨーロッパで発展した音楽が、アメリカに戻って来ましたので、白人の音楽と言っても間違いではありません。
ただ当時はここでEDMとして取り上げている曲はエレクトリックと呼び、EDMとは呼びませんでした。
2000年代後半にEDMを真っ先にR&Bに取り入れたのはクリス・ブラウンとビヨンセでした。2008年の事でした。
クリス・ブラウンは南部のバージニア州産まれ、ビヨンセはテキサス州ヒューストン産まれです。
動画はどちらも、その2008年の曲です。
これによって殆どのR&Bシンガーが次々にEDMを取り入れた作品をリリースしました。
EDMが主流になってもヒップ・ホップソウルが無くなった訳ではなかったのですが、大きな革命でした。
クリス・ブラウン
ビヨンセ
EDM(ラップ)
EDMを取り入れたのはR&Bの方が先だったのですが、1年後にブラック・アイド・ピーズがラップのEDMの曲をリリースしてヒットしました。
ブラック・アイド・ピーズは西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルス出身のヒップホップグループで、ここでは大ヒットしたEDMの曲を取り上げていますが、1990年代後半のデビュー当時はストレートなラップのヒップホップグループでした。動画は2009年の曲です。
黒人のEDMのラップの曲は意外に少なく、他には、モータウンの創始者のベリー・ゴーディの息子と孫によるラップデュオ、LMFAOが挙げられます。LMFAOも西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスの出身です。動画は2011年の曲です。
ブラック・アイド・ピーズ
LMFAO
2010年代ソウル
2010年代ソウルは、まずはネオ・ソウルが芸術から庶民的なR&Bになったという意味で、エル・ヴァーナーの曲を取り上げています。
ネオ・ソウルを庶民的な音楽にしたのは、2007年にデビューしたクリセッテ・ミッチェルという前例のアーティストがいたのですが、エル・ヴァーナーのデビュー時はすっかりメインストリームのR&Bとして定着したという意味では大きな出来事でした。
エル・ヴァーナーは、北部のニューヨークのブルックリン産まれですが、カリフォルニア州ロサンゼルスで育ちました。動画は2012年の曲です。
また2010年代を代表するR&Bシンガーと言えば、ブルーノ・マーズでしょう。
動画の曲はイギリス産まれのマーク・ロンソン名義のディスコ・リバイバルの曲ですが、ブルーノ・マーズも共作者であり、2014年に大ヒットした曲です。
2010年代のブルーノ・マーズ自身はニーヨやクリス・ブラウン路線のヒップホップ・ソウルのアーティストでした。
ブルーノ・マーズはハワイ州ホノルル産まれです。
エル・ヴァーナー
ブルーノ・マーズ
トラップとトラップ・ソウル
R&Bもヒップホップも2010年代の前半はさほど音楽スタイルに大きな変化はなかったのですが、2010年代の中盤から一気に音楽スタイルが変わります。
それがトラップとトラップソウルです。
トラップはメンフィスのクランクから派生した、南部のジョージア州アトランタで生まれたヒップホップです。
2000年代前半から登場したのですが、2000年代のトラップはそこまで他のヒップホップと違う、または新しいという衝撃はありませんでした。
しかし2010年代中盤頃にトラップは急速に新しい音楽へと進化しました。
そして2016年にミーゴスが動画の曲で、6連符を用いたフロウのトラップを完成形にしたと言えます。
ミーゴスはアトランタ郊外出身のグループですが、大まかには南部のジョージア州アトランタのヒップホップグループです。
真っ先にトラップをR&Bに取り入れていたのは、ブライソン・ティラーでした。それは2015年の事でした。
動画はそのブライソン・ティラーの2015年のデビュー曲です。
それがトラップ・ソウルなのですが、今のR&Bはサウンド的にはトラップ・ソウルが主流なのですが、あまりこのジャンル名は定着していません。それはブライソン・ティラーのデビューアルバムのタイトルが『トラップ・ソウル』だったという事にあるのかもしれません。トラップ・ソウルはブライソン・ティラー固有のジャンルだという認識があるのでしょう。
ブライソン・ティラーは北部のケンタッキー州の産まれです。ケンタッキー州は北部ですが、歴史的に定義が複雑な州です。
トラップ
トラップ・ソウル
オルタナティブR&B
2010年代初頭に確立されて、2010年代の中盤からメインストリームの音楽になったのが、オルタナティブR&Bというジャンルです。
オルタナティブR&Bはネオ・ソウルから進化した音楽なのですが、聴いて解る様にトラップの要素が入っています。
よってニュー・ソウルとヒップホップ、もしくはジャズ歌唱とヒップホップを組み合わせた、ネオ・ソウルというジャンル名では説明が出来なくなったのです。
また曲によりますが、必ずしもネオ・ソウルの様にクラシック・ソウルやニュー・ソウル、ジャズの色が濃いという訳では無く、全く新しいR&Bの曲も多いです。確かにオルタナティブR&Bはネオソウルから進化した音楽ですが、一概にネオ・ソウルの延長戦ではないのです。取り上げた2曲はオルタナティブR&Bという新しいR&Bです。
もちろんネオ・ソウルの延長線上で、クラシック・ソウルの色合いの濃いアーティストもいて、ネオ・ソウルの延長線上の曲もあります。
また1980年代後半にデビューしたアレステッド・ディベロップメント、1990年代中盤にデビューしたフージーズなどに代表される、ファンクや往年のソウルミュージックなどを取り入れた、オルタナティブ・ヒップホップという存在もありますが、オルタナティブという名称が一緒なだけで、全くの別物と考えて良いでしょう。
オルタナティブR&Bの代表的なアーティストは、カナダ産まれのザ・ウィークエンド、ミズーリ州セントルイス産まれのSZA(シザ)などが挙げられます。
ザ・ウィークエンドの動画は2015年の曲です。
SZAの動画は2017年の曲です。
またビヨンセの妹のソランジュはオルタナティブR&Bの先駆者でした。
ザ・ウィークエンド
SZA
カントリー・ラップ
この曲は2018年にリリースされたのですが、2019年にビルボードチャートの歴代最長記録となる、19週連続1位を記録しました。
それがリル・ナズ・Xのこの曲です。
カントリーとヒップホップ(トラップ)を組み合わせるという画期的な曲でした。
カントリーは白人の音楽ですので、これは意外だったのです。
しかしカントリー・ミュージックのルーツは、イギリスの民謡と黒人のブルース、ゴスペルにあります。
カントリー・ラップは、もちろんリル・ナズ・Xが作った音楽ですが、その後に黒人のカントリーアーティストが注目されたり、新たに出て来る様になり、ヒットしています。リル・ナズ・Xのこの曲に影響を受けた感じの曲や、まともにカントリーの曲もあります。
古くはレイ・チャールズ、そしてホイットニー・ヒューストもカントリーの曲をカバーしましたが、あくまでカントリーの曲をR&Bとしてカバーしたという位置付けでした。
近年では黒人シンガーがカントリーを歌う事は以前よりも珍しくなく、カントリー・ポップとして流行っています。ビヨンセもカントリー・ポップの曲を出し、ヒットしました。カントリー・ポップは1970年頃に白人のカントリーアーティスト達が作ったジャンルです。
リル・ナズ・Xは南部のジョージア州アトランタ郊外の産まれです。
リル・ナズ・X
2020年代ソウル
2020年代はドージャ・キャットの様なトラップ・ソウル的な曲と、シザの様なオルタナティブR&Bが流行っています。
シザ自身も売れています。取り上げたスティーブ・レイシーもオルタナティブR&Bですが、少し異色です。
ドージャ・キャットはカリフォルニア州ロサンゼルス産まれです。動画は2021年の曲です。
スティーヴ・レイシーはカリフォルニア州コンプトン産まれです。動画は2022年の曲です。
特にドージャ・キャットの様にR&Bシンガーがラップをするという風潮があります。1990年代初頭までは、R&Bシンガーがラップをするというのは普通でしたが、ヒップホップソウル登場以降、シンガーは歌、ラッパーはラップと専門分野に分かれました。しかし2010年代の後半からR&Bシンガーがラップもするという事が普通になりました。
2000年代後半のカニエ・ウェストあたりからラッパーがR&Bではないヒップホップ独自のメロディを歌う様になりましたが、R&Bシンガーがラップをするという事は珍しいかったのです。ドージャ・キャットは完全な二刀流です。
あえてスティーヴ・レイシーの曲を挙げたのは、スティーヴィー・ワンダーやクリス・ブラウンなどの影響を感じる伝統的なソウル歌唱でもありますが、どこかラッパーが歌った時の歌い方に似ているからです。スティーヴ・レイシーはオルタナティブR&Bのジ・インターネットというバンドのギタリスト兼ボーカリストです。バンドも新しい音楽を演っていますが、動画の曲は更に新しい音楽だと感じます。
2010年代後半からR&Bとヒップホップが同化してきています。
そして、1990年代から長い間、R&Bの本場はアトランタでしたが、2020年代からR&Bの本場はロサンゼルスだという声も聞く様になりました。
これからのR&B、そしてヒップホップはどの様に進化していくのでしょうか?
ドージャ・キャット
スティーヴ・レイシー
注目のアーティスト
今、注目のアーティストは、このJuiicy 2xsです。まだウィキペディア等に出て来ませんので、詳しい事は解りませんが、南部のジョージア州アトランタのアーティストの様です。なぜ推すのかと言えば、トラップ・ソウルの歌唱法でアコースティック色の強いバラードの曲を作り歌うという、新しい試みをしているアーティストだからです。
Juiicy 2xs
新しいブラックミュージックが出て来たら更新します
Author:Naya Moro
ブラックミュージック研究所の所長
20歳で渡米し、R&B(リズム&ブルース)のブルースとサザン・ソウルの本場メンフィスで音楽と英語を学ぶ。
2000年から横田基地の黒人教会のゴスペルクワイアに加わり、同時期にバークリー卒の講師陣の横浜のジャズ学校、横浜コンテンポラリー音楽院の2年科の作編曲科を専攻。
クラブブームになる前の1990年代の初頭までは、日本でもR&Bのルーツはブルースだと誰もが知っていました。
しかし今では、R&Bのルーツはゴスペルだという人が圧倒的多数です。それが間違っているとは言いません。
このサイトで本当のブラックミュージックの歴史を知って頂けたらと思います。
ブラックミュージック研究所が主催する、オンライン音楽教室のTriple M music art Classでは、
Mo's "MOZ" MoことNaoya Moroの指導によって、このページで紹介しているブラックミュージックの歴史を基にした、
ボイトレ主体の、R&Bボーカルレッスン、ラップレッスンを受講して頂けます。
ビデオ通話でのオンラインレッスンですので全国どこでも受講可能です(プライベートレッスン)。
詳しくは「レッスン」のページをご覧ください。
Naoya Moroの歌とラップ、Naoya Moroが指導したシンガーとラッパーの歌とラップも聴けます。
またオンラインレッスンの参考資料動画も貼っていますので、ぜひご視聴ください。
オンラインレッスンのレッスン風景画像
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